2008年04月13日

芸術家の平均寿命

表現には困難がともなう
おもいをそのまま形にすることは 不可能に近い

表現とは 困難であり
表現とは 逆境とともにあり
表現とは 消耗であり
表現とは 何かを生み出すことである


簡単な表現などありえない

人がこの世に産み落とされるのと同じように
苦痛も危険も飲み込んで
珠玉の一滴として 生をうけるのだ

創り手が寿命を縮めたとしても
なんの不思議も無い

その分の魂をそこに込めた

それだけのことである
タグ:芸術 アート
posted by ハンヨウ at 04:31| Comment(6) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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こんにちは。
制作の方はお進みでしょうか。日々こころの浮き沈みおありになるかと思いますが、それらすべてがよい結果に結びつくことを願ってやみません。

マリオ・ジャコメッリ展に行ってきました。作品は多岐に渡っていましたが、それぞれの状況の中で切り取られた人々の実在感が印象的でした。また、丘陵の畑を空撮した「自分について知っていること」というシリーズには、そこに向かう精神性の凄みといったものを感じました。以前お話したようにあるアートショップでジャコメッリ展のチラシを見て彼をはじめて知ることになったのですが、そのチラシにそのシリーズの一枚が載っていて、さらに「思いのままに畝を作り」空撮をしたという解説がありました。そうした予備知識が展示されていた数枚の写真を見た瞬間から先の精神のありようをよりいっそうたしかなものとして喚起させられました。それほどまでにして、自らの美意識に忠実であろうとするエネルギーと精神性にあらためて驚かされたように思います。いいか悪いかわかりませんが、現代において多くの著名な作品に立ち会う場合、こうした前宣伝や既存の評価によって一定のイメージを与えられてしまうのは仕方のないことであり、それも含めたうえで享受者の個々の状況との関係で多くの作品は存在するということなのでしょう。もしわたしが、ほんのわずかなものであれそれらの予備知識をまったく持たずに彼の写真に立ち会ったとしたならばおそらく違った印象を持ったのではないかと思います。でも、現にわたしはたまたまチラシを見て彼を知り、そして彼の作品に魅了され、見に行こうと思ったのですし、そうした現実から逃れられないのだな、などということを感じました。とはいうものの、ジャコメッリの生と死への凝視に貫かれた作品群そのものの持つ魅力や迫力といったものは、わたしにとってまぎれもなく得がたい貴重な時間と感興を提供してくれたものであることは間違いのないことです。
このとき同時にシュルレアリスムと写真「痙攣する美」と題される企画展が開催されていて、こちらも見てきました。それこそ、この企画展、その場ではじめて知ったのですが、入ってみて驚きました。冒頭に若いころ何度となく見たシュルレアリスムの中心人物であるマン・レイのアンドレ・ブルトンの肖像写真が展示されていたのですが、その下に「シュルレアリスム宣言」という本の原本が展示されていたのです。もう30年くらい前の話になりますが、アンドレ・ブルトン集成という当時の学生にとってはいささか高価だった本を買って読みましたが、当時はそれを読むのが精一杯で原典にあたるとか、それこそ原本がどんなものであるのかなどいうことを考える精神的余裕すらありませんでした。それが目の前にあるということに一抹の感慨を覚えずにいられませんでした。今のわたしはかつてのシュルレアリスム運動へ憧れていた自分からかなり遠いところに来てしまいましたが、シュルレアリスム宣言や当時の雑誌などの展示とシュルレアリストの写真家たちの作品は遠い記憶を呼び起こしてくれるような気がしました。
Posted by onyuugi at 2008年04月13日 22:32
A

それとひとつ思ったのは、写真の一回性、希少性あるいは質感といったことです。基本的にネガさえあればいくらでも量産が可能かもしれない写真は、絵画などの作品に比べて、一回性、希少性という点において異なるかもしれませんが、それでもまったく同じではないにしても、制作された写真には写真固有の一回性、希少性が存在するのではないかということです。写真のことについてよく知らいのでなんともいえませんが、同じネガであっても現像の仕方によっては印象の違うものになるのでしょうし、たとえ、同じ状態に現像されたものであっても、複数現像された場合それらが場合によってはそれぞれが違った歴史をたどり褪色や損傷などの変化をこうむることによってそれぞれちがった質感を与えられ、同時に一回性、希少性といったものを少しずつ与えられながら生きるのではないかということです。いってみれば、版画やエッチング画といったものに似ているのかもしれませんが、とくに今回の切り貼りによるコラージュ作品などはその切り口の浮き具合や質感といったものが、その現にあるものでしか持ち得ない一回性をそなえているとしか思えませんでした。なかには印画紙の白地の部分も含めて額縁に貼り付けられていたものもありましたが、その印画紙の黄ばみや幾分めくれ気味の切り口のあり方などは、その目の前の写真固有のもの以外何ものでもないように思いました。絵について、ほんものと印刷物の塗りの質感や色合いの違いに愕然とすることはよくありますが、写真についても同じようなものが少なからずあるように思いました。現に印画紙の白地の部分が残された写真も発刊されていた図録に掲載されていたのですが、見事に印画紙の白地の部分は削られていて、印画された部分のみがきれいに印刷されていました。それが写真集の一般的な当然の制作のあり方なのでしょうが、わたしにはそれはかなり印象のちがった作品といったものに感じられました。
ということで、写真に真摯に向き合われている方たちからすれば、いささか瑣末で的外れな印象かもしれませんが、二つの企画展を見て、様々なことを考えさせられました。そして、わたしは今回の展覧会から、もし、いつでも見られるものとして一つだけ選べといわれたらどうするだろうという愚問を自らにしてみました。そして、こう答えるだろうなと思いました。一つだけ選ぶことはできません。ジャコメッリの「この憶い出をきみに伝えん」という遺作の中の一枚と、ブラッサイの「シトロエンの広告のイルミネーションをつけたエッフェル塔、1929年」との二枚を選びます、と。

風土さんのお写真、「日常の中の小さな奇跡」「人の弱さや矛盾」をひとつのテーマとする「形無い物であり」「抽象画のような」「イメージを取り出」したお写真とのことでしたが、わたしの乏しい知識からはどんなものなのかなかなかイメージできません。それだからこそ余計に拝見したくもなります。

この間風土さんの気持ちを硬化させるようなことをしてしまったようで、とても申し訳なく思っています。日々そのことの意味を考えています。もしお気持ちがほぐれる様なことがあり、ふたたび対話を重ねられることができるようになればこれにすぐる喜びはありません。

制作の充実を念じて。
Posted by onyuugi at 2008年04月13日 22:41
こんにちは
だいぶ以前に頂いたコメントですが 私なりに簡単ですが言葉を並べてみます
コメントの冒頭 マリオ・ジャッコメリの制作姿勢に触れられていますが 表現者の理想はやはり表現者の中にあり 形にする以上は僅かな損失を伴います それを埋めようと日々技術の向上を目指すわけですが そこには多種多様な困難があります 物理的要素 精神的要素など 必ず制約をうけます そして理想に近づくほど困難となり ほんの少しの向上の為に膨大な労力を必要とする世界になってゆくのです その狂気にも似た精神力が歴史的傑作を生み出すのでしょう
また 私個人が美術館で作品に向かう場合 やはりパンフ等コメントは出来る限り読まないように情報の入手を避けます 先入観は怖いものです
学芸員や美術批評をされる方は本当に素晴らしい文章を書かれますが 第一撃は自分自身で受けたいですね その後に論評を読み感じ方の相違を確認します コメント中にもありますが 確かに私たちをとりまく現実から逃れることは出来ませんそれらは私たち自体を創っています そんな現実を生きる私たちがその作品の前に佇む という構図を変えることは不可能なのでしょう 過去に対して未来に対して 私たちは現代人であることを自覚する必要があります 決してそれを飛び越えた特別な存在ではありえません ただ悲観する必要はないのです 私たちにも出来ることはあるはずです。
ジャッコメリの主題 生と死への凝視については現代が淡いパステルカラーのような時代であって血を見るような原色の強さを持たない時代にあって 私自身も例外ではなく 不明瞭で抽象的な主題に関心を持つことがおおくなりがちです
それは作品に表れ 訴える力の無い作品を量産してしまうのです 強く困難な主題に取り組まれる方を本当に尊敬します 
シュルレアリスムについてですが 私も表現を考える者として非常に興味があり 書籍も何冊か手元にあるのですが 難解で勉強不足であるのが本当です ですから私の作品はおの影響は受けていないと思いますが 主観を排除する 美術に対しての概念を問い直したその姿勢は現代においても受け継がれている価値の大きなものと考えます
写真の一回性について
私は写真はその一枚が作品だと思います
フイルムではあらゆる意味で二度と同じプリントは作れません 以前マグナムの古いアルバム大もある写真集を見たときに頭を槍で貫かれた感覚を覚えました 見開き一杯に 群集の前で政治家が
演説を行っている写真が掲載されているのです
政治家の顔は狂気に満ち 群集の熱狂は体温を感じるほどです 過去のレンズ フイルム プリント自体の保存状況 により風合いが出た事もあるでしょう しかし最終的に語りだすのは写っているもの そこに閉じ込められた魂 この世の力そのものなのです 50年前のポートレイトを見ると溜息がでます 現代は何か大きな間違いをしている 得たものの変わりに失ったものは 途方も無く大きい そう思えてしかたありません


Posted by 風土 at 2008年05月28日 01:11
@

真摯なコメントありがたく拝読しました。表現に向かう誠実さそのものをひしひしと感じさせられました。
いたるとこに興味深い論点がちりばめられており目移りしてしまいますが、いくつか感じさせられた点について触れてみたいと思います。
まず、最初は表現する者にとっての制作姿勢に関してですが、大筋は表現者の内部における理想と過程における結果とのギャップの問題であり、そこにおける葛藤、模索ということかと思いますが、その中で「理想に近づくほど困難となり ほんの少しの向上の為に膨大な労力を必要とする世界になってゆく」というコメントがありましたが、おそらくそうコメントできるのも、日々風土さんがそうした葛藤、模索を実践されているからなのだろうと思います。ご存知のようにわたしも多少の音楽を作ったり詩を書いたりはしており、多かれ少なかれ自分なりの労力を注ぎ込んではいますが、果たしてここで触れられているほどの真剣なものとして行われているかといわれれば、おこがましくもそうであるなどとはいえません。だからこそ、ジャコメッリの丘陵の畑を空撮した「自分について知っていること」というシリーズなどにおける自己の表現に対する非妥協的とも思える精神性といったものになかば憧れにも似た感情を伴いながら強く惹かれるのだろうと思います。ただ、一方でジャコメッリにしても生と死への凝視、表現というものへの真剣さを基底に置きつつも、いつも眉間に皺を寄せ苦悩に満ちた表情で創作に取り組んでいたということではなく、その実際の過程では創作すること自体への充実感や喜びといったものも当然あったのだろうと思います。なおその上でいわばそうした日々の創作の中であいまいにすることのできないぎりぎりの瞬間というか境界というものがあり、幾たびもそれが風土さんいうところの「狂気にも似た精神力」といったものによって具現化されてゆくところに凡庸さを超えるものがあるのではないかと思います。
また「表現者の理想はやはり表現者の中にあり」とありますが、先だって紹介した「音楽を「考える」」という本の中で江村氏が触れていたのですが、作曲というのはどこまでも自分の内面の中にある音を聴き出しそれを拾いあげ表現する作業なのだというようなことをいっていました。
また、ジョン・ケージという20世紀西洋音楽を考える上で絶対に欠かすことのできないアメリカの作曲家のサイコロや八卦を振ったりして曲を作っていくという偶然性の音楽というものに触れているのですが、実はそれは、彼の中には書こうとしている音がすでに響いていて、その音と振ったサイコロや八卦とが一致したときに音を決定していくということなのだそうです。これは、笙奏者の宮田まゆみさんとの八卦を使ってのやり取りにおける内容であり、ほかの場合もすべて同じだったのかどうかわかりませんが、これまでわたしは彼の偶然性の音楽というのはサイコロや八卦等を振って出た目などによって文字通り偶然によって作り上げるものだとばかり思っていましたが、そうではないという事に、それこそ偶然性の音楽をはじめて知ったときと同じくらいの驚きを覚えました。まさにこれは一見偶然に身をゆだねているかのように見えながら、実は自己の美意識、内面の音を聴くということであり、風土さんの言葉にすれば「理想」というものなのかもしれないものに向かっての方法だったのではないかと思いました。
Posted by onyuugi at 2008年06月02日 21:49
A

シュルレアリスムについてですが、わたし自身それほどアプローチしたわけではなく、この間書き進めてきた詩めいたものを、それが何なのかを探る一つの視点としてかつてすこしかじったそれをもう一度考えてみたいと思っていた程度なのです。
せっかくですので、先の写真展に行った際ミュージアムショップで買った塚原史氏の「ダダ・シュルレアリスムの時代」(筑摩書房、2003年)を頼りに考えてみたいと思います。
まず、手前味噌で申し訳ないのですが、わたしの詩作との関係で自動記述のことを考えてみたいと思います。以前、漠然としたものであるといった限りで創作の方法としては自動記述が近いかもしれないとお話しましたが、仮にシュルレアリスムいうところの自動記述というものがそれこそ美意識も含めた「主体のいかなる意思も判断も介入しないうちに、できるだけ早く書くこと」によって主体の消滅を目指すことによる新しい表現の可能性への方法であるとするならば、わたしの詩はまったく逆の方向を向いているといっていいものです。また、それがあくまでも主体と言葉の意味を保持しながら「内部からの声」を聞こうとする試みであったとするならば、近いといえるかもしれません。そのどちらなのか、あるいはそもそも自動記述とはここで触れた内容とは異なるものなのかもしれず、それはわたし自身の今後の課題ということになりますが、少なくとも、いまのところ自動記述という方法がそれまでには無かったものとしての革新的意味を持ったものだったとの前提を踏まえつつも、目指された課題が前者であったとするならばそれとの関係で果たしてどこまで可能な方法なのか、あるいはそもそも目指された課題そのものが可能なものなのかという懐疑を拭い去ることができず、彼らの自動記述によって書かれた作品に触れる限りでは、主体の消滅とは裏腹な20世紀前半を生きたヨーロッパ人の感性、美意識として主体が浮かび上がっているのを強く感じてしまいます。
また、シュルレアリスムというと今の問題を含むきわめて革新的な技法、表現上の問題にスポットが当てられがちかと思いますが、一方では「マルクスは《世界を変革せよ》といった。ランボーは《生活を変えよう》といった。これら二つのスローガンは、われわれにとって一つのものでしかない」というメッセージにあるようにきわめて政治的な側面も強く持っていたものだったと思います。その実体が運動体としてどの程度の具体性をもったものだったのかは検討してみなければわかりませんが、少なくとも、その理念が文書として残されていることは確かなことです。1920年から30年代という彼らのおそらく多感な時期を過ごした時代は、ロシア革命、ファシズムの台頭等といった世の中が図式的に捉えられやすい時代であり、なおかついずれの陣営に組するにしても、マルクス主義を含め組した陣営の理念そのものが希望や期待を託すことのできる力あるものとして存在した時代だったのだろうと思います。そうした文脈をぬきに上記のメッセージを考えることはできないように思います。そして、待ったなしの感さえある地球環境問題等に眼を転じれば、おそらく現代は当時と比べても多くの社会的矛盾や混迷といったものが未解決のままいっそうの深まりを見せる一方、かつてのような希望や期待を託すことのできる理念的支柱といったものを見出すことが困難な、いわば出口なし的な状況かとも思いますが、そうした認識に立ちながらそれでもなおわたしたちは芸術を愛し、表現の追及をやめることはできません。少なくともわたしに関してはそうなのですが、だからこそ芸術を変えるためには社会を変えよう、芸術を変えるためには生活を変えよう、という彼らのメッセージを今日的課題としてあらためて考えてみたいという気がしています。
Posted by onyuugi at 2008年06月02日 21:56
B

写真の一回性ということについてですが、シュルレアリスムの運動と重なる時期に活動したベンヤミンというドイツの思想家に「複製技術時代における芸術作品」というおそらく彼の著作のなかでも最も多く取り上げられている論考があるのをごぞんじでしょうか。この論考、それこそわたしなどには難解で、またそれに引きずられてなのか解説書なども難解なものが多く、それらを読めば読むほど出口のない迷宮に入り込んでいくようなもどかしさを抱えつつよくわからないのですが、その中の大きな論点のひとつに写真による芸術作品の複製化による「アウラ」の喪失といった問題があります。「アートスケープ」というサイトの「現代美術用語集」*を執筆されている方々の解説によると、アウラとは「オリジナルなものが「いま」「ここ」という一回性においてもっている重みや権威」であり「オリジナルと変わらない質のコピーを大量生産することが可能な写真が、芸術の「真正性」を、ひいては「アウラ」を揺り動かすとのベンヤミンの認識は、その後の芸術論にもきわめて大きな影響を与えた」と解説されたりしています。シュルレアリスム同様、人の理解の助けを借りて本家本元への疑義をさしはさむようで気が引けますが、この議論をめぐってはここに見られるような「オリジナルと変わらない質のコピーを大量生産することが可能な写真」というものが先天的にあり、それは同時に写真そのものがはなから「オリジナルなものが「いま」「ここ」という一回性においてもっている重みや権威」を持ち得ないものとしてとらえられがちであり、どこか他の表現形式に比べてその点においてないがしろにされているような印象を持っていたからです。「写真には写真固有の一回性、希少性が存在するのではないか」という、先のわたしのコメントの背景にはそれこそ写真にも一回性における「アウラ」が存在するのではないかという問題意識があったからであり、その点について写真をおやりになっている方にうかがってみたいと思っていたのです。「フイルムでは」という限定つきであるにしても、その意味で風土さんのコメントに胸のつかえが下りたような気がしました。この問題はわたしの理解の不十分さもさることながら、写真に限らない今日のデジタル技術の進化による驚くべき複製化というあらたな問題も生じており、一筋縄ではいかない問題として考える必要があるのでしょう。ただ、いずれにしても新しく生まれる作品の持つ力は最終的には「そこに閉じ込められた魂 この世の力そのもの」が強く抉り出されたものであるように思います。

わたしの場合自分の表現について、どこかどこまで本気で、どこまで冗談なのか判別つかないようなところがあるように思いますが、風土さんの場合、表現に関してはおしなべて直球の真剣勝負といった感じで、襟を正して正座させられるような感じになります。他の作品に向かう態度などにもそれが表れている、と思いました。他にもかなり踏み込んだかたちでの興味深い論点がありますが、少しずつ考えていきたいと思います。返答ありがとうございました。

http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/a_j/kunstwerk.html
Posted by onyuugi at 2008年06月02日 22:00
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